Borrowed Landscape Project ワークショップ・レポート


2014年3月28日[金]〜30[日]
会場:東京・森下スタジオ



Borrowed Landscape は思想である——新しいダンスと演劇のために


藤原ちから

 この世のあらゆる物体は、周囲をとりまく環境と完全に断絶した状態では存在できない。無重力の宇宙空間でさえ、真空という環境に影響されることになる。いや、ひとまずはこの地球の上に想像力をかぎったとして、そこでは、たとえどんなに強固に見える物質であっても、錆びたり、削られたり、朽ちたりするし、生物(たとえば人間)にしたって、いかに偏屈な隠遁者でも、都市のインフラや自然環境を無視しては生きることができない。大なり小なり、まわりの環境に依存せざるをえない——。あらゆる物体は、常に「不完全さ」と共にこの世界に存在していることになる。
 「Borrowed Landscape」とは、そのような「存在の不完全さ」を利用して、「私」から離れた他者との関係のバリエーションを探っていくことで、新たな状況を導き入れるような技法、いや、もっといえば思想ではないか——。ハイネ・アヴダルと篠崎由紀子による3日間のBorrowed Landscape Project (BLP)ワークショップに参加してみて、わたしはそのような着想を得たのだった。
 アヴダルと篠崎は、2011年と12年にそれぞれ、岡田利規、柴幸男らといった演劇作家と組んで『Borrowed Landscape ‒Yokohama(横浜借景)』を発表している。わたし自身は後者のみを観ることができたが、実際それは横浜の景観をサイトスペシフィックに取り込んだ作品に見えたから、わたしも含めた参加者たちの多くは、最初のうち、「Borrowed Landscape=借景=風景を借りてくること」という先入観に囚われていたように思う。その考えは間違ってはいない。しかし3日間のワークショップを終えて感じたのは、「風景を借りる」というのは、Borrowed Landscapeという思想の一側面にすぎないということだ。
 以下のワークショップレポートでは、アヴダルと篠崎が追求しているBorrowed Landscape を単なる手法として捉えるのではなく、「私」ではない「他」なるものを通じて新しい状況を導き入れる思想であると仮定することで、それがダンスや演劇のこれからにどのような影響をおよぼしうるのかを考えていきたい。





「私」の意識をオン/オフにする
 参加者たちは、家からダンボールを持ってくるように事前にメールで要請されていた。ワークショップ初日、まずはそのダンボールが組み立てられ、様々な大きさの箱がたくさんつくられた。なぜ箱が必要だったのかといえば、ハイネ・アヴダルと篠崎由紀子が準備している新作『distant voices』では俳優が手で持てる大きさのブラックボックス(素材は不明)を使うつもりらしく、ダンボール箱はいわばその代用品だった(彼らにとってこのワークショップは、新作に向けての試行錯誤の機会でもある、ということが最初に明らかにされた)。
 エクササイズが始まった。参加者たちはまず、箱を手に持って歩いてみる。次にその箱を「0%」、持つ自分を「100%」として、その比率を次第に変えてみる……。つまり箱を「動かす」のではなく、箱によって「動かされる」かのように、主体と客体とのバランスをだんだんシフトさせていく。さらに今度は、そのダンボール箱を人間に替えてみる。すなわち2人の参加者が、それぞれ「100%」と「0%」の状態だとして、そこからお互いの比率を次第に入れ替えていく。
 このように、「私」の意識をだんだんオフにして、その身体を他のモノ(箱や人)の意志や都合に委ねていく。または逆に、「私」の意識をオンにしていく……といった試みは、いわば自分の身体を、自意識のコントロール下から解放していくことになる。参加者の身体は次第に主体性を失い、何かが憑依したような状態になっていく。喩えていうならこれは、シュルレアリスムの「自動筆記」にも近い。自動筆記が無意識下の思念や文体を引きずり出すように、このBorrowed Landscapeもまた、潜在的な身体の欲望や動きのバリエーションを引き出していく。


ブラックボックスである理由
 すなわちダンボール箱は、それに触れる人の意識を(100%から0%までのグラデーションをもって)オン・オフにさせるスイッチであった。と同時に、複数人を媒介するコミュニケーションの道具にもなる。たとえば、チームを組んで壁のように積み上げたダンボール箱群の後ろに隠れ、その壁を次第に押し出していくエクササイズでは、箱は単純に視線を遮蔽する(その背後に隠れられる)物体であるだけでなく、それを手渡したり、寝てる人の上に乗せたり、跨いだり……といった様々なコンビネーションを生み出していく役目を果たしていた。
 それにしても、なぜ箱=ブラックボックスなのか?
 実際にワークショップで出されたその問いに対して、篠崎は概ね次のように答えたと記憶している。つまり、箱は単なる具体的な(コンクリートな)物体として周囲の環境を構成しているだけではなく、
抽象性を持った(アブストラクトな)物体として、その内側にも環境を秘めた存在であるのだと……。
 実際に箱に触れながら様々なエクササイズを体験しているうちに、わたしはなんとなくスタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』に登場するモノリスという謎の物体のことを思い出した。猿に道具を使うことを覚えさせたそれは、人間レベルの存在を超えた、宇宙そのもののようでもある。アヴダルと篠崎がイメージしているブラックボックスもまた、モノリスのように、何らかの宇宙をその内部に秘めているのではないか。……そういえばワークショップの序盤、参加者たちは箱を投げたり蹴ったりしてぞんざいに扱う場面もあったのだが、丁寧に扱ってほしい、という約束がアヴダルと篠崎から追加された。そうやって次第に参加者たちは、箱も含めた周囲の環境に対して、意識を繊細に使うことを覚えていった。




日常の中のBorrowed Landscape
 使ったのはダンボール箱だけではない。参加者たちは、身の回りにある日用品をひとつ持ってくるようにも指示されていた。何を持ってくるかは人によって様々で、時計だったり、キッチン用品だったり、靴だったり、思い出の品だったりしたのだが、とにかくそれらを使って1分間のインスタレーションをつくってください、という試みがワークショップ2日目に行われた。
 室内にかぎらず、参加者たちは思い思いの場所でインスタレーションをつくった。開放していた窓のそばに置いて風通しのよさを利用した者もいれば、会場内のハシゴの上に乗せたり、あるいは特に場所にはこだわらずにモノと自分とを向き合わせる者もいた。わたしは筒状のパルメザンチーズを持ってきたのだが、外のロビーで思案しているうちに、ちょうどその机の下に潜って木製のへらとの関係を探っていた他の参加者(彼女はダンサーである)と意気投合(?)し、即席でコラボレーションすることに。単に、パルメザンチーズとへらを机の上に置いてお互いに向かい合う、というだけの1分間だったのだが、それらの日用品を介して他人と関われた(?)ことがなんとなく嬉しかった。
 いうまでもなくこれもまた、物質と環境との関係を探るためのBorrowed Landscapeの手法のひとつであり、この試みを通して、日用品もまたブラックボックスと化しうることが明らかにされた。つまりBorrowed Landscapeは汎用性が高い。何の変哲もない日常的な生活シーンを、さりげなく別の新しい状況へと変換するような力を持っているのではないか。
 たとえば、わたしが今、南ドイツのある町に滞在していて、カフェでこの原稿を書いているのだが、ドイツ語はまったくわからないので、それなりに孤独な思いをしているとしよう。ただ、ついさっき隣の席に来た2人組の女の子から、(たぶん)「そのメニューブックを貸してもらえませんか?」とドイツ語で尋ねられて「もちろんどうぞ」的に手渡した時、少し微笑まれて、わずかとはいえ交流が生まれたのが少し嬉しかった。実はこの黄色い表紙のメニューブック、わたしもまた、数十分前に他の人から借りたのだった。そうやって人から人へと手渡されているのであろうこの黄色いメニューブックは、ざっと見たところ、この広いカフェ空間に10冊くらいしかなく、テーブルの数より少ない。……そんなふうに見ていくと、このカフェで今お茶したりビール呑んだりしている数十人の(言語や人種に関係なく大なり小なり孤独であろう)人々を、このメニューブックがささやかに繋いでいるようにも思えた。……まあ、こんな例は適切ではないかもしれないけども、なんでもいい、今あなたの目の前にある品をひとつ意識してみて、それがインスタレーションとして展示されているのだと考えてみるだけで、その空間に何かしら別のイメージが舞い降りてはこないだろうか?
 ワークショップ最終日のフィードバックでは、「ふだん見えなかったものに意識が向くようになった」「いつも通る道に×××があったことに気づいた」といった参加者の声があった。人間の感覚は、日々を繰り返すたびにその環境に慣れていき、ある意味では鈍磨していくものだが、Borrowed Landscape的な発想を使ってその環境を捉えなおせば、慣れ親しんだはずの日常風景もまた、新しい姿をあらわすかもしれない。




ノンヒエラルキーな関係
 余談だが、アヴダルと篠崎のファシリテーションは日本語と英語のバイリンガルによって行われた。篠崎はアヴダルの英語を日本語に通訳する役目も果たしていたが、ディスカッションが盛り上がっていくにつれ、その通訳としての仕事を忘れて英語で2人でやりとりしてしまうこともしばしばであった。2人はあらかじめプログラム案を用意してこの場に臨んではいたものの、参加者の様子、手応え、残り時間などを考慮しながらアレンジしていったので、2人のあいだでの相談も必要なのだった。それが比較的簡易な英語であったため、通訳を待たずにその会話に参加者が割って入る場面もだんだん増えていった。
 結果としてこのバイリンガルな混沌のおかげで、このワークショップはアヴダルと篠崎がそのやり方を一方的に教える、といったトップダウン式のものにはならず、参加者たちも含めたメンバーでいい知恵を出し合って面白いことを見つけていこう、という空気が生まれていった。もちろんこうしたやり方はリスキーだし、特に2日目の冒頭は、エクササイズやそのフィードバックが空転する時間帯もあったけれども、そうでなければ、参加者は最後までこのワークショップの「お客さん」でしかなかったようにも思う。
 このような関係の構築の仕方には、空間に対するアヴダルと篠崎のノンヒエラルキーな基本姿勢も影響しているように感じる。李丞孝(イ・スンヒョウ)によるBLPの過去のワークショップ(http://borrowed-landscape.jp/2012/wsreport.php)とレジデンシー(http://borrowed-landscape.jp/2014/r-ws.php)のレポートからは、空間というものにすでに埋め込まれている無意識のヒエラルキーを、彼らが意識的に排除していこうとしている姿が窺える。


身体言語のボキャブラリーを開拓する
 ところで、参加者は『横浜借景』から興味を持ったという人も何人かいたものの、その多くはダンサーでもあり、コンテンポラリーダンスのシーンで極めて印象深い活躍をしている人たちも含まれていた。実際このワークショップを通してのアヴダルと篠崎の関心も「身体」に向いていた。たとえば、身体を各パートに細分化し、それぞれのパートだけを意識して動かしてみる……といったエクササイズは、ダンサーとしての素養がまったくないわたしにも、「あっ、身体ってこんなに面白く動くのか」という自由な感覚をつかませる効果を持っていたと思う。
 さらにその後の、1体1でのデュオとソロとを1分間ずつ切り替えながらメンバーで踊りを繋いでいく場面は特に刺激的だった。わたしの場合、たまたまあの(パルメザンチーズと木製のへらで)インスタレーションをコラボした某ダンサーとまた組むことになり、彼女のダンスに引っ張られて自分でも予期しなかった動きを発見することができた。身体が勝手に動いた……というと大げさかもしれないが、他人にその身体を委ねることで無意識下に眠るボキャブラリーを引きずり出すBorrowed Landscape的な発想はここでも機能していたようである。
 それにしても参加していたダンサーたちの身体はそれぞれに魅力的だった。見ているだけでも、その身体言語のボキャブラリーは実にバラエティに富んでいるし、実際に一緒に組んで動いてみると、こちらの身体も(自由を求めて?)疼きだす。




Borrowed Landscapeはダンスや演劇に何をもたらすか?
 アヴダルと篠崎が追求しているBorrowed Landscapeの発想は、ダンスにおいては、ある重要な(特に目新しいわけではないが、忘れ去られがちなそれへの)転回をもたらすだろう。ダンスはどうしても自己表現という色合いが強い。もちろんダンサー(というか人間)がそのような欲求を持つことはごく自然だとも思うのだが、ただ内側にあるパッションを外に放出するだけでは、いずれそこには限界が訪れるだろう。でもたとえば、巫女が何か霊的なものを憑依させることがあるように、古来からダンスには「外にあるものを借りてくる」という血脈もあったのではないか。そしてそのためには、「私」の身体を他者に譲り渡す必要がある……。
 そのようにして他者に手渡すことで生まれていく新しいダンスが、(すでに萌芽しているが)これから勃興し、ダンサーの社会的役割を変化させていくのではないかと、わたしは今感じている。コンテンポラリーダンスというと、ストイックにみずからの美意識に閉じこもるパターンが通例になっている感も否めないが、いつのまにか形骸化したそのような様式を解体し、豊かな身体言語を手渡していくという時期が今、たぶん来ている。
 もうひとつ、最後に演劇についてもひとこと触れておきたい。西洋から輸入したものを、高度資本主義経済の進展と共に独自に発展させてきた日本(東京)の演劇は、おそらく世界的に見てかなりいびつな状態にある。一種のミュータント/畸形ともいえるその作品・作家群に独特の魅力があるのは事実ではあるけれども、いっぽうで、たとえば作品と観客の関係とか、演劇と社会の関係とかに関しては、日本の現状はあまり魅力的というふうにはわたしには思えない。
 大量生産・大量消費という資本主義の皮膜に守られて日本の芸術は発展してきた。バブル崩壊以後、日本経済が傾いた後も、その期間に形成された風習は強固に守られている。消費者である観客は、作品をむさぼり喰う。お金を払っているのだから、気に入らなければ文句を言う。気に入ったら適当に褒めて、飽きたら無視する……。そういう状況はいかにも、臭いものには蓋をして、赤信号はみんなで渡れば怖くなく、喉元過ぎれば熱さを忘れる……という日本らしいと言えるのかもしれないけれども、とても誇れるものではないし、けっして心地よい環境ではない。
 ある風景を別のイメージへと読み替えることのできるBorrowed Landscapeの発想は(そう書くとまるで魔法のようだが)、もしかしたら、そうした日本演劇のアポリアを食い破る突破口のひとつになるのかもしれない。平凡な日常と、ちょっとした刺激物としての非日常(たとえばお芝居とか?)……みたいな、それで平穏無事なら結構だが、実のところ崖に向かって集団自殺を図っているのを誰も止められない、というような今の日本において、様々なところに風穴を開けていくのではないかと思っている。



藤原ちから(ふじわら・ちから):編集者、批評家、フリーランサー

1977年生まれ。BricolaQ主宰。雑誌「エクス・ポ」、武蔵野美術大学広報誌「mauleaf」、世田谷パブリックシアター「キャロマグ」などを編集。辻本力との共編著に『〈建築〉としてのブックガイド』(明月堂書店)。徳永京子との共著に『演劇最強論』。2014年4月、演劇センターFの立ち上げに関わる。



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